⛪🎹🎹🎹🎶🎵🕯️ 1.怒涛となり進め、われらは若者 瞳に輝くわれらの希望 主の御言(みことば)手に かざし進み行けよ われらが生命(いのち)ぞ、 ただ主にあれや 2.空のごと高かれ、われらは若者 海のごと深かれ、われらの信仰 われらは主の子女、 召されたる兄弟 ... 続きをみる
ねこのブログの新着ブログ記事
-
-
-
善なる人は、自然を見ても、人に会っても、どこへ行っても、いつでも心情でもって包むことのできる者である。
-
母親を探し求める子供の心情があれば、天の道を行くことができる。
-
万民を抱いて与える者は、万民から受ける者である。
-
愛は作用すればするほど、大きくなるのである。それゆえに愛からのみ永遠の生命が 生ずるのである。
-
侍る生活を通して天にほふられる者は、いつも天が指導してくださる。このような子女が、天の瞳である。
-
心情は希望であり、目的であって、 事情は生活である。 神様の心情を中心として、生活を広めていきなさい。
-
天国は神の愛が中心となっている所である。
-
旧約の時代は 望みを見つめつつ実践してきた時代であり、 新約時代は 信仰を実践してきた時代である。 今後、 成約時代は 愛を求めて実践していくときである。
-
-
宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命であり、生命の根本は愛であり、 愛の根本は神である。
-
人間が無限なる愛を願うのは、神の愛に到達しようとする本性の心があるからである。
-
幸福は与えてもまた与えたい。尽くしてもまた尽くしたい。 愛してもまた愛したい人を求めることである。
-
-
極めて悲惨な場から、極めて難しい場から、極めて悲しい場から結ばれるのです。そういう場で父と因縁を結んで、悲しみを無視することができ、悲しみを消化することができ、悲しむ人々を慰労できる人が、真に父に侍る者なのです。 そういう心をもって行くならば、絶対に苦痛は長く続きません。 絶対に滅びません。 た... 続きをみる
-
私たちは みな キリスト・イエスに あって 一つです。 アーメン! アージュ!
-
侍りたいお父様 1961年2月12日 韓国前本部教会「文鮮明先生み言選集第11巻」 神様が因縁を結ぼうとする目標 神様は天地万物を創造され、その万物を主管できる人類の先祖を立てたのち、そこに希望を置かれました。 創造理念を中心として、アダムとエバが成長してから、神様は彼らを訪ねたかったのです。どこ... 続きをみる
-
なにかと気をもみ 自分の思いで 時を待たずに 諦めてしまおうと する 私。 ですが、 神様のみ旨は 先にあって その方向に 自分の生活を 合わせていくことが 信仰者にとっては、 重要なことだそうです。 そして 神様は素晴らしい聖霊を送ってくださり 身も心も み旨の方向へ 導かれてゆくのですね。
-
父子の関係こそが 宇宙の根本的な場である。
-
他人に与えようと作戦をする者は、かえって与えられる者である。
-
-
神の内容を発表して、共産主義者までも泣かすことができれば、その力は共産主義をも克服して余りある。
-
知恵のある人は摂理の時をわきまえて行く人である。環境を主として生きたのではなく時を主にして生きたのである。
-
何が善であるか何が悪であるかに対しては、神様も教えてくださらない。 ときには、神が、それは正であると教えてくださったとしても、あるときはそれが否であると教えてくださる時がある。 故に、それは自分で見分けをつけなければならない。
-
神様は、原理の本体であられる方です。 すべてのことを創造するとき ただ創ったわけじゃなくて ご自身の中にある原理を 設計図にして そして創造したものが 創造原理です。 ですから創造原理は設計図です。
-
-
空気も電気も 作用と現象と結果をみて 見えないけれども、ああ存在するんだなあと認識するわけですよ。 では、 神様も存在はしてるけれども見えないので 唯物論者は宇宙の根本は物質だ、というふうに、 唯物論者は神はいないと。 しかしそれでも信仰する人は神様は存在するんだというふうに どのように存在するか... 続きをみる
-
① 愛は平和と幸福の源泉 愛は、もてばもつほどうれしく、一度もてばうれしくて手放したくありません。人間の努力では、生命の根源を支配することができません。私の生命の動機や過程、生命の終末までも動かすことができるのは、真の愛しかありません。 人間は愛で生まれたので、愛の道を 行き、死ぬ時も愛のために... 続きをみる
-
(つづき) 又、新郎と新婦この家庭の理想を失ってしまったんです。 万民兄弟主義も失ってしまった。 なぜかっていうと 自分の宗派、自分の教派しかわからないから。 それも自分の中で戦っていますよ。 喧嘩してると。 みんな異端だーとか正統だと それがこの善を追求する 良心を、追う宗教人たちの 態度かと。... 続きをみる
-
-
-
-
イエス様が来られて私の父だと 一人子だと、 どれだけ近い言葉でしょうか。 わたしは新郎で あなたは新婦だと それは家庭の理想です。 万民にわたしの兄弟だと、いった理想をもって、弟子の足も洗ってあげたり こういうことをすることができたわけです。 無条件で弟子たちも 足を洗ってくれと いうわけではな... 続きをみる
-
人間が それぞれ立っている位置は、すべて異なります。 ですから、人間はいつでも中心を 基準にして関係を結ばなければならない 立場にあるのです。 この中心は、絶対的な基準でなければならないので、この基準が私たちの主体的な立場とならざるを得ません。 その主体を中心として、主体自身も回りますが、対象であ... 続きをみる
-
参考 "生命の光" (№816引用) イエス・キリストは やがて十字架にかかって死んでゆかれます。しかし弟子たちに 「最後の遺訓」を語る中に、 「汝ら世にありては患難(なやみ)あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」と語っているように、 すでに勝利感をもっておられました。 普通の人に「... 続きをみる
-